田名網敬一 TANAAMI KEIICHI
想像

記憶と夢と現実が重なり新たに生まれる幻影の世界へ

日本が世界に誇る現代アートの巨匠・田名網敬一氏。
1960年代から、デザインやアニメーション、実験映画、絵画、彫刻など
ジャンルを超越した活動を続け、50年以上、世界のアートシーンの最前線を走り続けている。
80歳を過ぎてなお尽きることのないクリエイティビティの源泉は何か。その秘密に迫る。

記憶と夢と現実が重なり新たに生まれる幻影の世界へ

 私にとっての作品制作の原点は何かと考えると、まず思い浮かぶのは幼少期に体験した「戦争の記憶」だ。戦争といってもその意味すら理解していなかった年齢ではあるが、周りの大人たちが慌てふためく姿を見て、とにかくただならぬことが起こっているということは理解していた。実家は目黒にあったのだが空襲が激しくなってきたこともあり、一時期、母方の祖父母の家に転居することとなった。

 その家の庭には、縦2メートル、横4メートルほどの巨大な水槽があった。祖父が趣味で金魚を養殖していたのだ。蘭鋳、琉金、出目金……。いずれも高価な金魚たちはサイズも並みの大きさではなかった。その金魚が巨大な水槽で泳ぐ姿はまるで映画のスローモーションのようで、毎日飽きもせず眺めていた。

 ある時、空襲警報が鳴り響き、私たち親子は庭にある小さな防空壕に避難した。防空壕から外を見ると、その巨大な水槽が入り口付近にあったため、ユラユラと泳ぐ金魚を目の前に見ることができた。爆撃機はいつも真っ暗闇の夜にやって来るのだが、照明弾が落とされると、オレンジ色の光線が闇夜をまるで真昼のように照らすのだ。金魚たちもオレンジ色に輝き、その鱗が光に乱反射する。照明弾で狙いを定めた後、焼夷弾による爆撃が始まり、あたりは火の海と化し、赤い炎が金魚をさらに赤々と照らす。鱗に光を受けた金魚たちがキラキラと発光しながら、巨大な水槽の中を泳ぐ様は、異様な美しさを放っていた。防空壕から眺めた外界の景色は円形のスクリーンに映し出された映像のようで、私の脳内を刺激し続けた。以来、慌てふためく親たちを尻目に、私は防空壕に入るたび、美しく光り輝く金魚たちをうっとりとしながら眺めていたのだった。

 警報が解除され、防空壕から出ると、逃げ遅れた人たちの変わり果てた姿を何度も目にすることがあった。白目を剥き、体の一部を失い、血だらけで絶命した人たち。その他、莚(むしろ)をかけた死体を運ぶリアカーから片手が垂れて、地面を引きずっている光景など。幼少期に受けたこれらの強いインパクトは恐怖と一言で言い表すことのできない強烈すぎる記憶となって蓄積されている。戦争、死体、骸骨、金魚の幻影。これらの記憶はそれぞれが切り離されることなく、私の脳内に焼き付いていて、常に作品作りに影響を及ぼし続けている。

動物実験病棟で繰り返された、白昼夢のような畜殺の風景

 家のすぐそばに、伝染病研究所という建物があった。通称「デンケン」。入り口の門番の目を盗み、塀の穴から中に入ると病理実験用の動物がたくさん飼われていた。全身に湿疹が出ている牛。全身が真っ赤に膨れ上がった牛。痩せこけ今にも死にそうな馬。研究のために伝染病に感染させられた動物たちは、おぞましい姿をしていた。

 そこでは毎週決まった時間に、動物の畜殺が行われていた。白衣を着た屠殺人たちに連れられた牛や馬たちは、本能的にこれから行われることがわかるのだろう。猛烈に暴れていた。けれど黒い布を被され、視界を奪われると観念したのかおとなしくなる。そして、鉄の棒で眉間を殴打され、殺されていく。何度も何度も殴打され、次々に殺されていく。そして殺された動物たちは、すぐに解剖室に移されると、骨と肉と内臓をバラバラに解体される。滝のように流れ出る大量の血が白いタイルを覆い尽くしていた。

 皮を剥ぎ、肉を削いで、容器に入れていく作業者たち。ある時、牛の背骨の下あたりの肉をスーッと刺身のように薄く削ぐと、彼らは血の滴る生肉をそのまま口に放り込み、美味そうに食べていたのだ。窓越しに息をころして覗き込んでいる私と友人たちに気づいた作業者たちは、「坊やたちも食べるかい」と言って、肉片をピタピタと窓硝子に打ちつけて声をかけてきたのである。私たちは「ギャーッ!」と叫んで一目散に逃げ帰り、しばらくは恐怖でデンケンに近づけなくなってしまった。だがなぜか怖いけれど、またあの光景が見たくなる。友達を誘っても誰も行きたがらないので、1人でデンケンに潜り込むようになっていた。

 別の病棟には、解剖後の骨や臓器を保管している部屋があった。ガラス容器に入った正体のわからない不気味な塊が何百と保管されていて、ずらりとその容器が並んでいる。ホルマリン漬けされた1匹の猿の胎児。目をつぶり膝の上で手を合わせ、うずくまっている姿は、まるで人間の赤ん坊のようだった。誰もいない薄暗い部屋で、ホルマリン漬けの猿と対峙しながら、私は今にもこの猿が目を開き、立ち上がるのではないかと体中が恐怖でいっぱいになった。そして恐怖はいつしか離れがたい興奮へと変わっていった。デンケンは少年時代の私にとってもっとも刺激的な遊び場所だった。

 幼少期の不可思議な記憶が、私の人生を多彩に彩っているといえる。このころの鮮烈な原体験は現在の私の創作のあちこちに顔を覗かせているのだ。

現実と夢との境界線が滲みこの世ともう一つの世界とが重なり溶け合う

 私が夢の記述を始めてから40年以上の時間が経過した。驚くほど長く続けてきたのだが、最初に夢を強く意識したのは、胸膜炎にかかり生まれて初めて長期の入院生活を体験した時のことだ。入院中友人からもらったサルバドール・ダリの画集にはまり時間を忘れるくらい眺めていた。するとシュールな幻想世界に吸い込まれてしまい、精神と肉体の隅々までダリの世界観に取り憑かれてしまったのだ。そのせいか不思議な夢に毎晩うなされるようになる。病室から見える松の木がダリの絵のようにグニャグニャと曲がり大蛇のように蠢めく夢や、ダリの生まれ故郷ポルト・リガトの景観がモノクロの映像となって、近づいたり遠のいたりする夢など。注射による副作用と高熱で意識が朦朧としていたせいか、夢か現実かが分からない状態へとおちいってしまう。深夜になると、赤い非常灯の光が目の前の白い壁をぼんやりと照らし、そこに次々と幻覚が現れては消える。このような経験があまりにも不思議で興味深かったため、退院後、夢日記を描き始めたのだった。

 「記憶を編集したものが夢である」という言葉を何かの本で読んだことがあるが、何年も描き続けて膨大に溜まった自分の夢日記をまとめてみると、夢とは、過去の記憶や原体験と密接に関わりあっていることがはっきりと分かる。しかしそれは明確な時系列に沿った記憶ではなく過去の原体験がぐちゃぐちゃとひとまとまりになったような、複雑に入り組んだ世界を形成していた。

 私にとっての強烈な記憶はやっぱり戦争体験ということになるだろう。轟音を響かせながら迫ってくるB -29の大編隊、空襲を知らせるサイレンの音、空爆によって顔の皮膚が焼けるかと思うほどの熱風、火の海と化した町並み、恐怖と絶望的な空腹。これらの記憶は私の深層心理にずっと居座っていて、夢の中に何度も何度も現れる。その夢は、過去の記憶と重なり組み合わされ、脳内で記憶が別ものへと書き換えられ、新たな夢として私の前に蘇る。だから私は過去を振り返る時それが夢なのか現実にあったことなのかがよく分からなくなってしまう。夢と記憶とが互いに境界線を越えて混じり合い、溶け合っていく。

 私にとっての夢と記憶はあらゆるアイデアの源泉として絶えず自分自身に強い波動を送り続けてくれる貴重な経験でありバイブルでもあるのだ。

尽きることの無い知識欲によって想像は無限に湧き続ける

 ずいぶん長い間、大学で教師を務めているが、私が教えている最も大切なテーマは“想像力”だ。想像とはあらゆるものを生み出す原点となるもの。どんな小さな、どんな些細なことからでも巨大な宇宙を想像することだってできるし、ちょっとした気づきからとんでもないものが生まれるなんてことはよくあることだ。これからを生きる人にとって必要なのはこの“想像力”すなわち柔軟な発想力を持つことが大切だと思っている。豊かな発想の無いところに、決して新たなものが生まれることはない。

 ではどうすれば柔軟な発想力が身につくか。まずは自分を知ることから始めなければならないだろう。本人自身もまだ気づいていない、それぞれが持つ多彩で個性的な感性を発掘していくこと。自身の内部に目を向けて新しい何かを発見するということは、何もデザインやアートに携わる人たちに限ったことではなく、何かを生み出そうとしている全ての人に必要なことだ。自分自身と向き合い、過去の記憶を呼び覚ます作業は、濃い霧の中を歩き回るような、または迷路に足を踏み入れる時のような感覚に似ていて、未だ見ぬ世界への好奇心を刺激され、それ自体がとてもクリエイティブな体験といえる。

 私の作品には幼少期に味わった鮮烈な原体験や当時の記憶が現れるが、記憶の世界をそのまま描くことはほとんど無い。そこにはもう一つのキーワードである“編集”という作業が関わっているからだ。「人はコラージュしながら生きている。人生とは雑誌そのものだ」。そんなことをどこかのコラムに書いたことがあるが、これはごくごく当たり前のことで、1日に起こったこと全てを人は覚えているわけでは無い。その日の中で気になった景色や事件、匂いや味などを、脳内で編集して、ある一部分を誇張したり書き換えたりしながら、記憶に定着させて生きている。まさに人生とは雑誌作りのようなものだが、この「編集」という行為が私の作品制作においても強く影響を及ぼしている。

 私が描く視覚世界を言葉で説明することはとても難しいが、私の脳内に完全にインプットされた記憶や経験の数々は脳内で編集され攪拌(かくはん)され、その記憶がある状況や時代背景や、空気感などの刺激を受けて、自分でも想像しなかった、思いもかけない形として、画面に立ち現れるのだ。そうやって現れた新たなビジュアルが私の視覚を通してまた脳内に入り込み、新しく塗り替えられた記憶としてインプットされる。その記憶はさらに脳内編集され、アウトプットとして落とし込まれるという、「記憶」と「編集」による、無限の想像ループへとつながっている。

 更に想像力を養う上で大切なのは、好きなことにどれだけ没頭できるかということだ。私は学生に常に「好きなことをやりなさい」と助言している。映画が好きならめいっぱい見ればいい。年間400本500本、本気で見てみなさい。そこまでやれば新しい発想が何かしら湧いてくるはず。お酒を飲むのが好きなら、いろんな場所でいろんな人たちと飲むことで会話が生まれ思いもかけない知識を手に入れることができるかもしれない。料理が好きなら季節の料理を食べ歩き、世界中の料理を味わい尽くせばいい。「もっと遊びなさい」などと言うと、どう遊べばいいかが分からないと返ってくるが、とにかく好きなことに没頭することだ。貪欲に好きなことを突き詰めることで “知識欲”が湧き上がってくる。この知識欲こそが想像力を刺激する源泉だ。

 私が80歳を過ぎてもまだまだ作品を作り続けられるのは、この尽きることの無い“知識欲”を持ち続けているからということができるだろう。好きなことを徹底的にやり続けることで知識欲を掻き立て、想像力を磨き続けていってほしいと思う。

田名網敬一 (たなあみ・けいいち)
現代美術家。1936年東京生まれ。武蔵野美術大学デザイン科卒。1960年代からメディアやジャンルの境界を横断して精力的な創作活動を展開し、日本におけるサイケデリックアート、ポップアートの先駆けとして知られる。デザイン、イラストレーションといった商業美術の枠に留まらず、アニメーション、実験映画そして絵画、彫刻作品まで幅広く手掛け、現代の可変的なアーティスト像の先駆者として世界中の若いアーティストたちに大きな影響を与え続けている。1991年より京都造形芸術大学教授に就任し、若手作家の育成にも力を入れている。その名声はかねてより欧米においても通じている。
田名網敬一田名網敬一
猪風来猪風来